1‐2‐4.動向分析の視点から教育・人材育成を考える①

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「80対20の法則」

動向分析を生かす視点の1つとして、研究費で優れた研究(者)を支援・育成することについて論じたが、優れた研究資質をもつ人を教育・人材育成で支援・育成することについても論じる。

但し、筆者は教育行政や教育心理学の専門家ではないので、内容がかたよることを最初にお断りする。読者の中の学部生・院生・ポスドクは、所属研究室、研究テーマ、就職先などキャリア構築で進む道は週単位や月単位で選択せざるを得ない。はじめての経験で状況が差し迫っているにもかかわらず、全体像も詳細像もわかりにくい。しかも、いったん選択すると、元に戻れない。将来はわからないにしても、自分が置かれた現状を自分なりに精一杯理解し、より良い選択をしてもらいたい。

さて、筆者は、昔から不思議に思うことがある。人間としての権利や義務は1人1人平等でいいけど、身体機能には優劣がある。足の速い人がいれば遅い人もいる。背の高い人がいれば低い人もいる。同じように頭のいい人がいればそうでない人もいる。これが現実だ。日本はどうしてその前提で教育・人材育成をしないのだろうか?

教授も1人の人間で時間・精力・体力は限られている。教授によるが、通常、能力はソコソコである。普通に考えて、ほとんどの教授は、かゆいところに手が届くようにすべての学生・院生の面倒をみることはできない。努力量が足りない学生・院生や能力の低い学生・院生を落ちこぼれないように教育すれば、努力量が多い学生・院生や能力の高い学生・院生の教育はおろそかになる。一般的に言われている「80対20の法則」である。

<80対20の法則>…80対20の法則は,イタリアの経済学者であるヴィルフレド・パレートによるものとされているが,元々は,入力と出力に比例関係がないことから導き出された法則である.この法則を科学研究に適用すると,わずか20%の努力が,80%の成果を生み出していることになる.成果の大部分を生み出している20%を特定することが,時間を効率的に使う鍵である.この80対20の法則は,概念が単純である一方,実践するのは幾分難しい。[『理工系&バイオ系 大学院で成功する方法』ゴスリング著、白楽訳、日本評論社、2010年]

しかし、研究者育成の場では、優秀ではない学生・院生に時間・精力・体力の80がかかる。それなのに、研究成果や教育効果は20しか得られない。一方、優秀な学生・院生には時間・精力・体力の20しかかからないが、研究成果や教育効果は80も得られる。

研究者育成の場は大学・大学院で、義務教育の世界ではない。研究では、優秀な学生・院生の中のさらに優秀な学生・院生を対象にしてよいし、そうすべきだろう。優秀な学生・院生に、その才能のすべてを高く、強く、個性的に開花させ、発揮させるべきだろう。その才能を、学生・院生個人の将来の出世・幸福・蓄財・権勢のために発揮してもいいけど、基本的にはそれを主目的にしない価値観を持ってもらいたい。日本社会全体、ひいては全人類社会に優れた才能を発揮してもらいたい。その達成感に、優秀な人は大きな満足が得られるような社会であるべきだろう。

日本に秀才・天才の能力を伸ばす思想や仕組みがない

それなのに日本は、人間のもって生まれた能力はみな等しいという非現実的な考え方、つまり、能力平等観で教育制度ができている。努力すれば、みなイチローになれるわけでも、ウサイン・ボルト(2012年ロンドンオリンピックの男子100m金メダリスト)になれるわけでもないことは自明の理だと思うのに、日本では、「人間の能力はみな同じ」という能力平等思想が支配的である。どうしてなんだろう? 米国の教育思想は能力平等観ではない。

生き物の成長は、「遺伝」と「環境」に依存する。「種」と「土壌・肥料」と言ってもいい。生命科学の専門家でなくても一般常識だろう。遺伝子が枠を決め、その枠内で生き物は育つ。育つ環境が良くなければ、適切な肥料を与えなければ、どんな素晴らしい遺伝子をもっていても、美しく開花できないし、豊かな実もつけられない。ただ、どんな「環境」「土壌・肥料」を与えても、遺伝子の持つ枠を越えた美しい花は咲かないし、豊かな実もつけない。トンビは鷹を産めない。瓜(うり)の蔓(つる)に茄子(なすび)はならない、のである。

上智大学の加藤幸次は、欧米と日本との「人間観の相違点」として次のように述べている[アメリカにおける能力別グループ指導]。

欧米では習熟度別指導が早くから導入され、一般化しています。一般的にいわれていることですが、欧米では人間の成長・発達というものは一人ひとり違っているという前提が受け入れられているのです。それに対して、日本では“努力すれば、勤勉であれば、人間は皆同じペースで成長・発達していくものである、あるいは、いくべきである”と考えられています。 実は、欧米では「習熟度別」とはいわず、はっきりと「能力別」というのです。能力というのは生まれつき、その人に備わっているものです。その能力に応じて指導しようというのです。他方、日本語の“習熟”という言葉は、くり返し学習するようにすれば、誰でも一定のレベルに達するべきである、と理解されます。

恒吉僚子の著書『人間形成の日米比較』にも同様の記述が見られる[人間形成の日米比較]。

アメリカにくらべ、日本では、「児童間の学業成績の差はなぜ生じるのですか」という質問を教師や親にした場合、生来の能力差以外の理由が好まれることは、H・スチーヴンソンやW・カミンズなどの数々の研究者によって繰り返し示されてきた。 学力差の原因は児童の「努力」の違いや、家族の協力的あるいは非協力的態度、教育環境の良し悪しなど、さまざまな要因に求められるわけだが、「生まれつきの能力差は存在しないか、たとえ存在しても努力や環境などの後天的なものにくらべれば問題にならない」という考えが、日本人の間では一時代前から強いとされてきた。これは、能力平等観などと呼ばれ、日本人の特徴だと言われている。 これに対して、アメリカでは、日本よりも生来の能力差を肯定する傾向があることは、幾度となく指摘されてきた。「生来の能力差は直接、神からわれわれが授かるものであり、人間はその存在をなくすことは決してできない」とは、『アメリカのデモクラシー』でのA・トクヴィルの言葉であるが、”gifted”という語は、「天賦の」という意味であり、ある子どもが他にくらべ、特別な能力や才能を天から授かっているという宗教的な響きがある。[ギフテッド – Wikipedia]

日本では、優れた頭脳の持ち主にを適切に教育し、その人の成長を促進することと、優れた頭脳を日本社会全体、ひいては人類社会に役立たせる教育思想・システムが欠けている。

日本のことわざに「十歳(とお)で神童、十五歳(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人」がある。子供のころとても優れていた人が大人になると普通の能力の人になってしまうという意味だが、ここに教育の問題が垣間見える。つまり、本当は優れた資質を持つ子供だったのに、子供のころに適切な教育がされなかったため、「二十歳過ぎればただの人」になってしまったのではないだろうか。このようなケースが、ソコソコあっただろうと思われる。その人にとっても、国としても、もったいないことである。

【このコラムは文章が長いのがタマにキズというコメントがあり、今回は話をここでポッキリ折って終わります】。

【余談】
最近、有名人とお会いしました。左が筆者。右は誰でしょう?
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今回は以上です。
次回をお楽しみに。
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