1‐2‐3.日本人は自分で判断しない・できない

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自分で評価できずに海外ブランドに依存する

前回、「1.潜在期」「2.始動期」の研究を支援・育成する思想・仕組み・スキルがない、と述べたが、どうしてなのだろう?

根本的な問題は、日本人は自分で判断して決めることができない(しない)という点にある。学問を発展させるが、学問を新しく作ることはできない(しない)。ルールは守るものであって、ルールを新しく作ることはできない(しない)。

領土問題(尖閣・竹島)では、国際法で解決しようと国際組織にゆだねる。観光地は世界遺産として認めてもらいたがり、新記録はギネス世界記録に登録したがり、なんでサントリー世界記録組織(?)を作らないのだろうか? レストランの評価はミシュランガイドであり、ファッションはパリ・ミラノ・ニュヨークとなり、バッグはビトン、シャネル、ミュウミュウ、グッチ、コーチというわけだ。

食べ物やファッションというかなり個人的な好みでさえ、自分で判断しない(できない)で、海外に評価を依存している。

日本国内ではメルセデス・ベンツといえば高級車、フェラーリ、ポルシェといえば高級スポーツカーの代表的ブランドであるといった固定観念が他国から見ても非常に強く、そのこだわりは諸外国から見れば異常なほどでもある[ブランド – Wikipedia]

研究論文でも、日本語で発表しないで海外の研究ジャーナルに英語で発表する。ノーベル賞を異常と思えるほど高く評価する。自国では評価できず、世界の評価をありがたがる。海外依存体質からなかなか抜け出せない。世界の評価といっても、海外で神さまが評価するのではない、海外の人間(日本人と同じ人間)が評価するのである。

ノーベル賞受賞は主に「5.衰退期」「6.すっかり衰退期」の研究

筆者は、生命科学分野のノーベル賞受賞(生理学・医学賞、化学賞)について研究者の受賞年齢と受賞論文発表年齢を分析したことがある。その結果、「基幹的発見」は33歳か39歳の時になされ、平均60.2歳の時にノーベル賞を受賞している。つまり、ノーベル賞は、20年以上も前の研究に対して授与されるのである。[バイオ研究の動向と研究者]

ノーベル賞の受賞研究は、もともとは「1.潜在期」「2.始動期」の「基幹的発見」で、その発見が、「3.発展期」「4.成熟期」をリードしたことが認められた研究である。従って、受賞時には「5.衰退期」「6.すっかり衰退期」に入っていることが多い研究である。ところが、日本のメディアはこの状況を理解できず、ノーベル賞を受賞すると、その研究が現在のホットな研究だと一般大衆に誤解・錯覚させるかのような報道をする。当該分野の研究者も、自分に有利だから、現在のホットな研究分野であると強調する。

この報道により、さらに研究費・人材が「4.成熟期」「5.衰退期」「6.すっかり衰退期」の研究分野に投入され、研究分野の世代交代が無用に遅れ、社会資源分配の不具合が誘導される。

ノーベル賞、文化勲章、多くの科学賞に、過去の業績を顕彰する意義があることを否定しない。しかし、動向分析をしている筆者としては、結果として、上記の弊害が強いと感じる。研究費配分に注意してほしいが、特に、若者がそれにつられて、「5.衰退期」「6.すっかり衰退期」の研究分野に進むことは、優秀な彼らの人生を賭けてしまうので、是非とも健全な選択をさせてあげたい。

日本のノーベル賞研究者が日本では認知されていない

ノーベル賞の扱いに触れたが、次のことも指摘しておく。

日本人が日本で、幸運にも、「1.潜在期」「2.始動期」の「基幹的発見」をしたとしよう。発見したとしても、しかし、それを支援・育成する思想・仕組み・スキルが日本には大きく欠けている。

2000年に白川英樹、2002年に田中耕一がノーベル賞を受賞したが、彼らは、「日本で無名」の研究者だった。日本で無名の研究者がノーベル賞を受賞したことに、メディアと国民は驚き喜ぶが、少し考えてみれば、ノーベル賞を受賞するわけだから、「日本で無名」でも「海外で有名」だったハズである。少なくとも海外の専門家の間ではとても高く評価されていたハズだ。

筆者以外にこういう指摘をする人がいないが、ここでの深刻な問題は、「日本で無名」でも「海外で有名」だったことである。「日本で無名」の研究者がノーベル賞を受賞するということは、日本のその専門分野の有力者(学界ボス)が、受賞前に、ノーベル賞受賞研究を知らなかったか、知っていても高く評価していなかったということだ。つまり、日本の学界ボスが評価に関して無知・無能だったということだ。そういう学界ボスが研究費審査を牛耳っているわけだから、本来ノーベル賞をもらえるような研究に適正に研究費を配分していないということだ。研究費審査をしてきた学界ボスは恥ずかしくないのだろうか? 責任をとれと言いたい。制度を変えろと言いたい。

しかし、次項「官僚・学界ボスの癒着の弊害」で述べるように、科学政策は官僚・学界ボスが牛耳っているので、状況は改善されない。制度は変わっていない。将来ノーベル賞を受賞する可能性のある「基幹的発見」が日本国内で何件あっても、いま現在、学界ボスはそれらの研究を知らない、あるいは高く評価していない。従って、研究費での支援・育成をしていない。そのようなケースがいくつもあるだろう。

読売新聞・調査研究本部主任研究員の芝田裕一が、科学部のノーベル化学賞担当記者だった時、「一度も聞いたことのない(日本人の)名前」の人がノーベル化学賞をとったと、2012年9月に書いている。

ノーベル各賞は10月に発表される。日本人の受賞が決まったら、新聞社内は目が回るような忙しさになる。担当記者は資料や原稿を事前に準備しておくのが普通だが、もし予想外の人物が選ばれたらたいへんだ。2002年秋、スウェーデン王立科学アカデミーのノーベル賞委員会が「田中耕一」という一度も聞いたことのない名前を発表したとき、科学部のノーベル化学賞担当だった筆者は、頭の中が真っ白になった。[2012年9月27日 読売新聞]

この記事に憤慨して筆者は、彼に以下のメールを送付した。

読売新聞の科学部のノーベル化学賞担当記者が「一度も聞いたことのない(日本人の)名前」の人がノーベル化学賞をとるということは、日本の化学界(イヤ、科学界)が日本の化学者(科学)を適正に評価できていないということです。日本の科学研究者の評価(研究費、人材登用、昇進、大型研究プロジェクト採択)に大きな欠陥があるということです。この反省が、国全体になさすぎます。官僚や学界の大御所は、自分たちの評価が間違っていて、批判されるのはイヤだから、こういうことを云いだしません。しかし、彼ら以外に責任者はおりません。科学記者が、その点を言及してほしく思います。現在も、同じ評価方針が続いているわけですから、結局、本当に創造的な研究者は日本では評価されない。衰退していくか、海外に出てしまうわけです。学問を発展させる科学者よりも、学問を作る、歴史を作る科学者が必要だという価値観が徹底しなければ、次代の学問は衰退していきます。

充分に調べていないが、どの国でも、ノーベル賞を受賞する科学者がその国で無名だったことがあるのだろうか? 国民には知られていなくても、その専門分野の有力者は十分知っていて、高く評価していただろう。ということは、少なくとも、その国の有力新聞社のノーベル賞担当の科学記者は十分知っているハズだ。

知らないということはありえない。しかし、科学記者が知らないということは、その専門分野の有力者が知らなかったか、高く評価していなかったということだ。そういう専門家集団(学界ボス)がこの国の研究費の審査をしてきたのである。そんな専門家は、一利はあっても百害もあるだろう。

官僚・学界ボスの癒着の弊害

どうして百害ある専門家が有力な研究者(有名大学の教授、大きな学会の役員、政府委員)になるのだろうか?

理由はいくつかあるが、ここでは、研究費審査を論じてきたので、政府委員になる点を考えよう。

日本の官僚は、批判・非難が大嫌いである(誰でもそうではあるが)。特に、失敗や批判が大嫌いである。大胆なことはしない。安全が大好きである。それで、官僚は、1つは学界ボス、もう1つは素人を重用する。

学界ボスが便利で快適な理由は、学界ボスは専門家集団のボスなので専門家集団からは非難されにくい。世間からは権威と学識と見識があると受け取られ、世間(マスコミ)から非難されにくい。素人は、企業の部長を中学校校長に任用するように、実務上の知識・経験・スキルがないから、実務のプロである官僚はコントロールしやすい。

それで、学界ボスを素人として使う。つまり、学識経験者という理由で学界ボスを専門とはあまり関係のない審議会などの政府委員にする。政府委員は、当該政策に関する経験、知識、思想・哲学、分析力、調査力、思考力が必要である。しかし、学界ボスはその実務上の知識・経験・スキルがない素人なので、コントロールしやすい。担ぐには軽い神輿ほど都合が良いのである。非難されず便利で快適なので利用する。

学界ボスの方は、政府委員になることで甘い汁が吸えるから、誰もが喜んで任命される。

例えば、2001年のノーベル化学賞を受賞した野依良治(1938年生)を2006年、政府の「教育再生会議」座長に任用した。野依良治は化学者として専門能力は素晴らしい人だろう。しかし、誰がどう見ても、「教育行政」が素晴らしいとは思えない。官僚の誰が推薦したのか知らないが、どういうもんだろう。そして、野依良治は受諾するのである。

内科学・腎臓学が専門の医学者・黒川 清(1936年生、元東大医学部教授、元・日本学術会議会長、元・内閣特別顧問)は、彼が日本学術会議会長だった時、日本学術会議として初めて研究者倫理を問題にし、研究者倫理を研究していた筆者は、彼の人柄と能力を高く評価している。しかし、原子力・原子炉の専門家でも、放射線医学の専門家でもない黒川清が、2011年、国会が設けた東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の委員長になったのは、どういうもんだろう。

国として、科学政策の専門家が必要なら、科学政策の専門家を育てるべきなのである。特定の専門研究分野の経験、知識、思想・哲学、分析力、調査力、思考力が必要なら、専門研究分野である程度成功した40代・50代の大学教授・研究者から募集していもいい。筆者が客員で滞在した米国NIHにはそのような大学教授・研究者あがりの研究政策担当者が千人以上いた。

今回は以上です。
次回をお楽しみに。
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